PXIポータブルNMR測定システム - LabVIEW仮想するロックインアンプ -

太田 岳史氏, 大阪大学 核物理研究センター

"複数計測ひとつPXIまとめることポータブルNMR測定システム実現しました。"

- 太田 岳氏, 大阪大学 核物理研究センター

課題:

偏極HD標的を輸送するにあたり、従来のNMR測定システムは、ラック1台分の大きさで持ち運びは容易でないため、運搬可能で安価なポータブルNMR測定システムの実現が必要であった。

ソリューション:

ロックインアンプ、ネットワークアナライザ、オシロスコープ、スペクトラムアナライザ、磁場モニター、周波数カウンタ、パルスNMR用測定器の7つの測定器をPXIに集約することで、システムの小型化が実現した。従来のシステムに比べ、体積を95%、コストを75%削減することができた。

1.背景

  • 核子内部のクォーク構造の研究

陽子、中性子はuクォークとdクォークという基本的な粒子3つから構成されていることがわかっている。しかし1988年のEMC(European Muon Collaboration)グループが行った深部非弾性散乱実験では陽子全体のスピンの一部分をストレンジクォークが担っている可能性があると報告された。米国ブルックヘブン研究所で行われたνp弾性散乱実験でも同様の結果が得られた。

 

このように陽子内部にストレンジネスの存在を示唆する実験結果が報告され、その可能性について理論方面でも議論が行われた。最近になり核子内部のストレンジネスの存在について否定的な実験結果が出てきた。トーマスジェファーソン国立加速器施設においても電子陽子弾性散乱を用いた陽子内部のストレンジネスの構造についての実験が行われ、陽子内部のストレンジネスの存在を支持するものではなかった。しかしまだ実験数も少なく核子内のストレンジネスを十分に議論するだけの材料は揃っていない。このような事情から、核子中のクォーク構造をより明確にするため、さらなる実験結果が求められている。

 

我々は核子内部のクォーク構造を研究するするため、ビームと標的の偏極実験を計画している。偏極したビームを偏極した標的に照射しそれぞれの偏極の方向の違いによって反応を理解しようというものである。

 

偏極標的には水素分子と重水素分子が結合したHDという物質を用いる。このHDは極低温(10mK)と高磁場(17T)の環境で84%の偏極度に到達する。さらに比較的温度が高く、磁場が低い環境に移動させても偏極度を長期間維持できるという性質を持つ

 

偏極HD標的は大阪大学核物理研究センターで製造されSPring-8に輸送される。(将来的には偏極HD標的は大阪大学を拠点とし製造され、各実験施設に輸送できることを視野に入れ開発を行っている)

 

  • ポータブルNMR測定システムの必要性について

偏極度の測定にはNMRを用いて行う。偏極HD標的内の陽子は固有の振動数(ラーモア周波数)で歳差運動しており、この陽子に対してラーモア周波数と同じ周波数の回転する回転磁場をかけると磁場と原子核の間にNMR共鳴が起こる。偏極HD標的は静磁場中に置かれ標的を取り囲んでいるコイルによりRFが照射される。回転磁場は静磁場とRFの周波数で決定され、どちらかを掃引することによりNMR共鳴曲線を得る。陽子の場合、1Tの静磁場中では共鳴周波数は42.578MHzである。我々のNMR測定では磁場を掃引(時間変化)して共鳴曲線を測定している

 

偏極度は輸送途中、及び到着時、実験中に測定する必要がある。

 

しかしNMR測定システムはラック1台分の大きさであり、持ち運びは容易ではない。また偏極HD標的をSPring-8に輸送後も大阪大学核物理研究センターで次の偏極HD標的を作成することもあるのでもう1セット必要である。NMR測定システムは高価で全ての機器を合わせ600万円もする。

 

そこでPXIとLabVIEWで運搬可能で安価なNMR測定システムができないかと考えた(図1)。

 

図1 従来のNMR測定システムと考案したポータブルなNMR測定システム。従来のシステムを運搬可能なサイズまでコンパクトにする。

 

2.課題

NMR測定システムでは信号発生器、ロックインアンプ、オシロスコープとネットワークアナライザの機器を使用している。信号発生器はコイルから偏極HD標的にRFを照射するために、ロックインアンプはコイルから帰ってきた微小信号を検出するために、オシロスコープとネットワークアナライザはNMRシステムの調整用に使用される。ポータブルNMR測定システムを実現するために、上記測定器群を1つのPXIシャーシにまとめる必要があった。

 

NMR測定システムに必要な機器の要件を以下に示す。

  • 10MHz~100MHzの信号発生器
  • 10MHz~100MHzまでの帯域幅を持ち周波数スウィープが可能なネットワークアナライザ
  • 100MHzまでの帯域幅を持つロックインアンプ
  • 100MHzまでの帯域幅を持つオシロスコープ

 

信号発生器とオシロスコープはすでにサンプルプログラムがあるので実現は容易である。ロックインアンプとネットワークアナライザを実現させることが本研究の骨子である。ロックインアンプは構築可能であっても感度がなければNMR信号を検出できない。

 

偏極HD標的の偏極度を測定する場合、入力する信号が強ければ偏極した陽子の偏極度が壊れてしまう。

 

HDの特性上、一度失われた偏極度は長期間元には戻らない。照射するRFは偏極度を壊さない程度に極力小さくする必要があり、コイルから返ってくる信号は非常に小さい。構築したロックインアンプはこの微小信号を検出できなければならない。

 

ポータブルなNMR測定システムを構築するなかで、ロックインアンプの性能水準を維持させることが課題となる。

 

3. ソリューション

3-1. システム構成

ポータブルNMR測定システムを実現するにあたってコンセプトプログラムを作成した。そこからロックインアンプとネットワークアナライザ実現可能で、そのためには信号発生器とデジタイザが必要ということが分かった。

 

ポータブルにすることが目標であるのでPCには汎用ノートPCを使用したい。本研究室では以前からLabVIEWを使用していたので、PXIとノートPCをリンクさせ必要な機器を仮想化すればポータブルNMR測定システムを構築できるのではないかという考えに至った。ただPXIを使用したことはなく全ての測定器を実現出来るかどうか不安を感じていた部分もあり、予算は100万円程で作成してみることにした。

 

上記条件からPXIモジュールとそれに必要な機器を以下のように選定した。

 

PXIシャーシ      : PXI-1036

リモートコントローラー : PXI-8360

信号発生器       ; PXI-5404(100Mz FGEN)

高速デジタイザ     : PXI-5114(8bit 250MS/s)

 

コイルにはPXI-5404からRFを送り、返ってきたシグナルをPXI-5114のデジタイザで集録する。収録された信号はLabVIEW上で仮想化されたロックインアンプに入力されディジタル処理される(図2)。

 

図2 構築するポータブルNMR測定システムの回路とPXIとの接続図及び仮想化する二位相型ロックインアンプのダイヤグラム。

 

仮想化したロックインアンプで処理される内容は図2下のようなダイヤグラムである。

 

デジタイザPXI-5114のch0にはコイルからの信号を、ch1には参照信号を入力する。トリガーには信号発生器PXI-5404のクロック信号を用いる。

 

参照信号は位相が0°と90°を持つ信号に分けられコイルからの信号と掛け合わされる。掛け合わされた信号のうち参照信号周波数と等しい成分のみが直流成分となり、それ以外の周波数を持ったものは交流成分となる。交流成分は次のローパスフィルターで除去され直流成分のみが残る。残った直流成分はDSPで処理され信号強度R、位相θおよび、同相成分I、直交成分Qを得る。我々のNMR測定では同相成分Iだけが必要であるが、先述したようにオフラインの解析で位相変換が可能なように直交成分Qも同時に取得する。

 

このサイクルを1ポイントに対して行い、NMR測定は秒間10ポイント生成する。0.1秒で1サイクルを終えなければならない。この時間は磁場の掃引する速さに起因する。

 

コンセプトプログラムを作成していたことからPXI納入後1週間で測定システムを構築できた。図3は最初に測定したPXIを用いたNMR測定の画面である。右上に表示されているのがフッ素の同相成分Iと直交成分QのNMRスペクトルである。スペクトルは磁場を掃引しリアルタイムで描画される。

 

図3 最初に構築されたポータブルNMR測定システムのLabVIEWフロント画面。右上がLabVIEW上で組まれた仮想ロックインアンプから得られた同相成分I、直交成分Q

 

NMRシグナル測定が成功したことを受け、PXI-5114(250MS/s 8bit)よりも高分解能な高速デジタイザPXI-5142(100MS/s 14bit)を追加購入した。両方のデジタイザでテストしたところS/N比は2倍に向上したが、分解能の違いに比べれば大きくはなかった。分解能は6bit差があるのでS/N比は単純に64倍向上するはずである。一方1サイクルに取得するサンプリングする数の平方根に対してはS/N比は向上した。このことから分解能はすでに十分であり、ノイズの支配的要因は熱的揺らぎであると考えた。よって次は実用化に向けて0.1秒以内に処理できるサンプリング数を増加させるべくCPUのリソース割り当てとメモリの管理を見直した。

 

具体的にはロックインアンプ感度向上の為、次のようなコードの改良を行った。

 

    • 同一のループ内にあったデジタイザの集録処理とロックインアンプの演算処理を分離し、2コアCPU(Core 2 Duo)に対応すべくプログラムを並列処理化。片方に集録処理を、もう一方に演算処理を同時に行わせることで1サイクル内に処理できるサンプリング数を向上させた。
    • LabVIEW上でのオシロスコープやスペクトラムアナライザは負荷がかかり、また表示させるだけでメモリを消費するので、タブパネルを導入し選択したタブの測定器だけ起動させるようにした。
    • 信号を掛け合わせた直後のローパスフィルタ(図2)は直流成分だけを通過させるだけでよいので積算器に変更した。
    • Phase converterで行う位相変換方法を以下のように変更した。

     

    位相変換はヒルベルト変換や複素フーリエ変換、その他算術的な方法を用いて行ったが変換の演算処理に時間を要した。CPUのリソースは出来るだけサンプリングの処理に回したい。そこで最初のサイクルで参照信号から周波数を求め、ソフトウェア内部でその周波数をもった正弦波と余弦波を生成しメモリにキャッシュする。次サイクルからはメモリから正弦波と余弦波をロードし、入力信号と掛け合わせた。             

     

    これらコードの改良によって0.1秒以内に処理できるサンプリング数は100kから1Mと大幅にアップした。ネットワークアナライザやオシロスコープなどの測定器を統合しポータブルNMR測定システムを完成させた(図4)。

     

    図4 実用化に向けて開発したポータブルNMR測定システムのLabVIEWフロント画面。左はロックインアンプ、右はネットワークアナライザの測定器。内部に複数の測定機器が組み込まれている。それぞれの測定機器はタブで切り替え可能となっている。

     

    3-2. 結果

    • 従来の測定システムとポータブル測定システムでのNMRスペクトルの比較

    従来の測定システムで得られたNMRスペクトルと開発したポータブルNMR測定システムで得られたNMRスペクトルを以下に示す(図5)。縦軸がコイルから返ってきたNMRシグナルの強度を示し、横軸は磁場に対応する。それぞれ左のピークが偏極HD標的内の陽子、右側が標的セルとコイル台座に含まれるフッ素によるNMRシグナルである。ポータブルNMR測定システムではデジタイザにPXI-5114と、追加購入したPXI-5142でそれぞれ測定した。

     

     

    図5 従来の測定システムとポータブル測定システムで得られたNMRスペクトル。左上が従来の測定システムで得られたNMRスペクトル。右上が追加購入したPXI-5142(100MS/s 14bit)で得られたスペクトル。左下がPXI-5114(250MS/s 8bit)で得られたNMRスペクトル。

     

    • ロックインアンプの感度の比較

    ロックインアンプの性能の指標となるS/N比の比較では下記表1のようになった。PXI-5114とPXI-5142は性能は2倍ほど違う。

     

    従来の測定システムに比べてS/N比は落ちるものの偏極度測定には問題ない。新たな測定器の開発が容易に可能となったことや手順が簡素化されたメリットの方が大きい。

     

    またこれらNMRシグナルは温度が1.5K で測定されたものであり、偏極度はわずか0.07%である。製造される偏極HD標的は84%程に達するので実際に測定するシグナルはこれよりも1000倍程大きい。

     

    なおデジタイザにはPXI-5142を採用することにした。

     

        表1 従来の測定システムとポータブル測定システムの得られたNMRシグナルのS/N比の比較

     

    H(陽子)

    F(フッ素)

    従来の測定システム

    58

    141

    ポータブルNMR測定システム

    (PXI-5142)

    46

    105

    ポータブルNMR測定システム

    (PXI-5114)

    20

    60

                                                                             

    • 複数の機器を一つのPXIにまとめることでポータブルなNMR測定システムが実現

    今回ポータブルNMR測定システムに組み込んだ測定器は、ロックインアンプ、ネットワークアナライザ、オシロスコープ、スペクトラムアナライザ、磁場モニター、周波数カウンタ、パルスNMR用測定器の7つである。いずれもPXIの信号発生器とデジタイザを利用し、LabVIEWで構築された。 

     

    • 従来のシステムに比べ重さ、空間スペース、コスト全てにおいてダウン

    従来のシステムに比べて、重さでは約80kg(ラックを含む)から7.1kgと93%のダウン、体積では約95%のダウン、コストは600万円から150万円(PXI-5142の場合)程度と75%安価に構築できた。。

       

      • 測定の手順が簡素化されたセミオートで測定が可能になった。

      従来のシステムでは測定、調整ごとにケーブルを入れ替えており条件が変わることも少なくなかった。ポータブル測定システムではNMR測定器群が1つにまとまることによって測定機器の切り替えはLaBVIEW上で行えるようになりケーブルの入れ替えは不要になった。また測定器同士で連携が可能となり、調整して得られた値を他の測定器にフィードバックさせることによりセミオートでのオペレーションが可能になった。

       

      • 信号発生器と高速デジタイザを用いて新たな測定器やチェックシステムを作成することができた

      信号発生器PXI-5404、高速デジタイザPXI-5114及びPXI-5142を使用して周波数カウンタやスペクトラムアナライザ、パルスNMR用測定器もオプションとして開発した。周波数カウンタはロックインアンプの一部機能として、スペクトラムアナライザはノイズの特定手段として役立っている。パルスNMR用測定器は開発中であるが試験テストで実用的に使用可能であるとわかった。

       

      なおすでに述べたとおり、ロックインアンプの感度(S/N比)は秒間あたりに処理できるサンプリング数に強く依存する。バスの転送速度と演算速度が向上すればS/N比も向上すると思われる。

       

      今回開発したポータブルNMR測定システムは予算の制限があることからバスにはPCIを、またポータブルなシステムにしたかったのでコントローラーには汎用ノートPC(Core 2 Duo T7600)を用いた。

       

      著者情報:

      太田 岳史氏
      大阪大学 核物理研究センター

                  図1 従来のNMR測定システムと考案したポータブルなNMR測定システム。従来のシステムを運搬可能なサイズまでコンパクトにする。
                  図3 最初に構築されたポータブルNMR測定システムのLabVIEWフロント画面。右上がLabVIEW上で組まれた仮想ロックインアンプから得られた同相成分I、直交成分Q